東京高等裁判所 昭和47年(ラ)15号 決定
本件記録によれば「抗告人は昭和四三年四月三日母高橋絹江の非嫡の子として出生し母の氏を称するものであるところ、同月二三日父袖山作司により認知されたものであること、右袖山は昭和四二年二月以来右高橋と同棲しており、抗告人も出生時以来右両名と同居し、その監護教育を受け、幼稚園入園の出願に際しては袖山健一と称してその手続をしていること」が認められ、右認定事実によれば、抗告人がその氏「高橋」を父の氏「袖山」に変更することは抗告人の利益に合致するところであり、呼称秩序を紊すことにもならないものというべきである。
ところで、民法七九一条の子の氏の変更の許可は家事審判事項とされているのであるから、許可の要件を定めた法規は他に存在しないけれども家庭の平和と健全な親族生活の維持という家事審判法の目的に反する結果とならないかどうかについても家庭裁判所は審査して許否を決すべきであり、したがって新に称しようとする父又は母に配偶者があり、嫡出の子もあるという場合には氏の変更についてはそれらのものの意見を尊重すべきであるといえよう。しかしながら、右配偶者らが非嫡出の子の氏の変更に反対の意見をもっている場合であっても、そのものの家庭・親族生活の現状に著しい悪影響を及ぼすおそれがないならば氏の変更を相当とすることの妨げにはならないものと解すべきである。
よって、この見地において本件をみるに、本件記録によれば次の事実が認められる。即ち、
抗告人の父袖山作司は昭和二三年吉田シヨと婚姻し、一度協議離婚をした後昭和二五年六月一三日夫の氏を称する婚姻をし、昭和二九年一二月二四日佐藤シズの男和良(昭和二五年一一月一四日生)と養子縁組をしたところ、昭和三一年三月一五日夫婦間に長男博央が出生した。右作司は昭和二八・九年頃から菅原ヨリという自己の従業員と二年間にわたり情交関係があり、妻シヨの知るところとなり右菅原との関係は解消したが、昭和三一年頃になって当時経営していたそば店の従業員であった高橋絹江(抗告人の母)と情交関係を結ぶようになり、昭和四二年二月以降は、家を出てその頃新に開店したそば店東堀店において右絹江と同棲してその関係を継続して今日に及んでいる。一方シヨは従前からの店新更科白山浦店を経営して養子和良および博央と同居してきた。そして、右作司はシヨとの婚姻を解消すべく昭和三七・八年頃シヨを相手方として離婚調停の申立をし、それが不調となるやさらに新潟地方裁判所に婚姻関係を継続し難い重大な理由があるとして離婚の訴を提起したが、婚姻関係破綻の原因は専ら作司にあるという理由で昭和四五年五月一三日敗訴の判決言渡があり右判決もその頃確定した。一方シヨは作司が絹江との関係を解消してシヨとの共同生活の復活を望んで離婚することに反対し、抗告人がその父の氏を称することにも感情上許せないとして反対しているのである。
以上の事実が認められるのであって、作司との共同生活の復活を望むシヨが家庭の平和を紊す原因を作った高橋絹江の子である抗告人が入籍する結果となる氏の変更に反対することは、現在の我国の国民の感情としては首肯できないわけではない。しかしながら、本件記録によれば、長男博央は中学校卒業後前記白山浦店の手伝いをしながら夜間の調理学校に通っているが、作司の別居後も作司方に出入し中学校卒業時には進学について作司に相談したりしており、また養子の和良は中学校卒業後作司の同業者の店で三年位働いてから昭和四四年五月頃東京に出たが都内から差出した葉書があったのみで所在が明らかでなくなっていることが認められ、抗告人の氏の変更が博央らの社会生活上に著しい不利益を及ぼすおそれがあるとは考えられないところ、シヨと作司との婚姻関係も前認定の事実からすれば作司が翻意して絹江との関係を解消する以外に改善をはかれないとみられ、そのことのために抗告人の氏の変更が妨げとなるとは考えられない。抗告人の氏の変更は、シヨおよびその子の博央らの現在および将来の生活に著しい悪影響を及ぼすものとはいえないから、これを相当として許可することの妨げとはならないものというべきである。
(谷口 綿引 宍戸)